室戸市ピアノ教室 自己紹介

プロフィール

 

畠中由香

 

音楽好きの一家に育つ

大阪生まれ

自営業の父と専業主婦の母の間に、3人兄弟の中間子として生まれる。

音楽好きな父が、よくレコードをかけていた。

そんな中、カワイ音楽教室のグループオルガンレッスンに通う姉について3歳の頃から、オルガンを始める。

大阪に住んでいたため、当時のオルガングループレッスンは、大変人気でバスで30分ほどかけてお教室に通っていた。

大きなオルガンがずらっと並び、同じ年頃の子供たちと、レッスン歌の始まりの歌を、手をつなぎ輪になって歌ったこと、リズムうちをした、木でできたカスタネットの音、うたいながら描いた絵描き歌、お宿題にだされたお家で聴くためのレコード、みんなでうたったさよならのうた、、、、

 

ピアノの思い出

ちいさかった割には色々な記憶が蘇り、初めての音楽体験がとても楽しい思い出として今でも残っている。

その後、2年のグループレッスンを経て、音大を卒業された個人ピアノ教室の先生のご自宅に通うようになる。

ピアノの個人レッスンに通うことがきまると、両親はすぐにピアノを用意してくれた。

通いはじめると、はじめは楽譜がすらすら読めなかったようで、やめたいというようになった。

お菓子が大好きで毎日のおやつを楽しみにしていた子供だったが、毎日泣いて泣いて、

「もうお菓子もいらないからピアノをやめさせて」と母親に懇願したそう。

母は、あまりにもかわいそうなので私をつれて、辞めることを決意、先生のもとへと向かった。

そこで、出てこられたのが、その先生を育てられた実のお母様だった。

そのお母様は、「ピアノは子供との戦いです、毎日毎日練習をすれば、楽譜はいずれ読めるようになります。いまやめてしまってはダメです!!」とおっしゃったそう。

そこで、母はいわれた 通りに毎日の練習を欠かさないように一緒に練習を見てくれた。

そして、このやめたかった辛い記憶は全く残っていない。

このお母様がいなかったら今の私はいないかも・・・

 

小学生〜ピアノが上達

毎日の練習が習慣づき、楽譜もすらすら読めるように壁を乗り越えた私は、ぐんぐんピアノが上達していった。

もともと耳の良かった私は、絶対音感がついていたので、耳コピでアニメの主題歌などを弾いたり、楽譜に書いたりとピアノが遊びのようになっていった。

当時習っていた先生は、メソッドにプラスしてピアノピースという1曲ずつピアノ曲が楽譜になったものを弾かせてくれる先生だった。

これが私にとって大正解だった。

いわゆる有名なピアノ曲、子犬のワルツや軍隊行進曲など、知っている曲を弾ける喜び。

そして、ピアノピースには、A、B、C、というようにレベルが記載されているので、そのレベルが少しずつ上がっていくこともとても嬉しかったのを覚えている。1曲合格すると、『次は○○の楽譜を買っていらっしゃい』と。次はなんの曲がもらえるの?と、うきうきしながら、レッスンに出かけていた。

新しい曲に取り組む時が、一番楽しかった。

・一方、ピアノ以外ではとてもどんくさい子供だったので、運動神経は皆無、、、自転車、逆上がり、うんてい、、、人が、なんなく出来ることが

なかなか出来なかった。

自転車も何度も何度も転んでは起き上がり、うんていにいたっては、豆がつぶれて、血だらけになってもできるまで決してあきらめない子供だった。

コツコツと練習すれば、必ずレベルが上がっていくことを、ピアノで学んでいたから頑張れたのかもしれない。

順調にピアノと音楽を楽しむ中学時代

中学に入って吹奏楽部に入った。

大阪の中学校は、全校1200名ほどのマンモス校。

部活動に選んだ吹奏楽部は、100名越えの大人数!

私の希望楽器は、フルート!

たった4人の枠をジャンケンで勝ち取った!

お年玉でフルートを購入するほど、大好きだった。

部活動のレベルは高く、ほとんどの人がピアノや何かしらの楽器を習っていたので、楽譜も読めるのは当たり前。

みんな黙々と練習をし、むずかしいパッセージを難なくクリアしていくようなそんなレベルの高い部であった。

定期演奏会では、大きな舞台でみんなが一体となり、曲を演奏する一体感や、大人数だからこその迫力!

いま思い出しても音楽の持つエネルギーを感じる熱い舞台経験だった。

 

突然の出来事

ところが、中2の6月。

なんの前触れもなく「家を売って故郷に帰ります。」と両親から衝撃の話をされ、バタバタと高知に転校となった。

ショックだった。

ずっと仲のよかった6人組は、吹奏楽部でも同じ仲間であったし、産まれてからずっと住んでいた街から離れることは思春期の自分にとっては、大事件だった。

まず、1学年11クラスのマンモス校から、2クラスしかない田舎の学校へ〜田舎では転校生はかなり珍しいらしく、こちらからは知らなくても周りはみんな自分を知っている、というような状況だった。

もの珍しい転校生にみな話しかけてくれ、大阪弁からすぐに土佐弁を使いこなした。

クラブは、10数人、、、あまりの人数の少なさ、使っている楽譜が簡単なこともショックだった。

それでも少ないからこそ、吹奏楽部に入ることを、学年問わず吹奏楽部部員がみんなで喜んでくれたことは、とてもうれしかった。

少ないからこそ、関係も密で、すぐにうちとけた。

クラブでは、人数が少ないので、フルートの個人レッスンもあった。

わたしが、初見でアルルの女を吹くと顧問の先生に

『この曲、本当に初見なの???あなた、応援するから音楽の道に進みなさい』

といわれた。

引っ越してきてから、薄々と経済的な厳しさをなんとなく感じとっていた私は、フルートを学べたらどんなに幸せかと思いながらも、音楽科に行きたいなどとは口に出せなかった。

 

バス代のかからない高校へ

高校は、先生の勧めてくれた高校もあったが、ここでも薄々我が家の経済状況が厳しいのでは?と感じていた私は、バス代のかからない自転車でいける学校に行くことを選んだ。

何度かそこでいいの?ときかれた。そこは、吹奏楽部もなかった。

けれど、私は近くの学校へいくことにきめた。

部活は、タイプ部に入り、比較的活動がゆるやかだったので、ピアノもやめずに練習時間がとれた。

 

希望の光が

そして、月日がたち進路を決める3年の春だっただろうか。。。

全く別の道に進む予定だったが、そんなある日のピアノレッスンの日、当時習っていた先生から「ピアノ講師を目指したらどうか?」

と助言を受ける。

音大なんてお金もかかるしとんでもないと思った私に、その先生は音大にいかずピアノの先生になれる方法を教えてくれた。『そんな方法があるの?』

私は、その日から、ピアノの先生になるべく、幼児教育科を目指し、歌のレッスンも始まった。

 

見えない物の応援〜短大時代

10倍近い倍率の、第一志望校の公立の短大に晴れて合格!

一人暮らしをしながら、通学する。

在学中二年の間にカワイ音楽教室の講師グレードが取得できなければ、先生にはなれない。ピアノの先生も替わり、ピアノの演奏グレード・指導グレード・ドリマトーンの演奏グレード・指導グレード取得に向けて新しい事に沢山取り組んだ。

学校は学校で、実習が沢山あり、時間のない中、私はピアノの練習に熱心に取り組んだ。

当時の先生の門下生は大変レベルが高く、発表会で耳にする曲は、私を虜にした。

平日も休日も、ますます練習に励むようになり、楽典や和声、聴音、今までに触ったこともないドリマトーンの演奏、コード、編曲、などの習い事をこなす日々。いくつもの習い事の月謝も高く、十分な仕送りを受けながらも、家計簿をつけ、1ヶ月8000円で食費をやりくりしていた。

絶対に『カワイの先生になりたい!!!』その一心だった。

ちょうどその頃、父親の仕事が上向きになり、何か目に見えない物の応援を感じる位に、全てがうまく運び、受けるテストは全て一発合格、一年目に講師資格を手にすることが出来た。

 

ピアノ講師になる!

講師資格を手にした私は入社試験も突破し、自分が子供の頃に通ったあこがれのKAWAI音楽教室の講師となる。子供の時に通った同じオルガングループレッスンをまさか自分がレッスンですることになるなんて、、、

1歳からのコース、3歳コース、4.5歳コース!沢山のグループレッスンから、個人レッスン、大人のレッスン、色々経験させてもらった。

 

舞台女優

元々は、とても人見知りでおとなしかった私。

高校生の頃、家の電話がなってもとれないほど人見知りが激しかった。

そんな私が、KAWAIでの色々な仕事を任されるうちに、見たことのない自分が開花していった。

グループレッスンの発表会は、ミュージカル仕立ての舞台になっている。

そこで、まさかの主役の進行役に抜擢!

時には、光の精!! 

ある時には宇宙の子供、!!

ある時には歌のお姉さん!!

大きな舞台にたって、台詞を言い、物語を進行していく!

私は、舞台女優になったつもりで(笑)思い切り演じた。

自分の問いかけに、お客さんが答えてくれる快感。

NHKの歌のお姉さんになったみたい〜

キャラ転換?

私ってこんな人だったの?

新しい自分発見!!

私のレッスンは熱いと言われることが・・・

どうやらこの時に目覚めてしまったらしい(笑)

 

まさかの!

私の夢は、70代までKAWAIでピアノを教えること!

だったのだが、結婚先の土地にはKAWAIのお教室がなかった。。。

そのため、15年間努めたKAWAIを結婚退職することに。

高知市内から2時間はなれた室戸市に、お嫁に行く。

子育てとピアノ

翌年には長女を出産。

初めての子育ては、悩むことが本当に多かった。抱っこをしていないと

寝てくれない娘を、夜な夜な抱っこする。布団に横になって眠りたい、、、、と

何度思ったことだろう。

そして、そんな私は子育てコミュニティに毎日、お弁当を持って遊びにいくようになる。

そこで出会ったママ友から、娘にピアノを教えてほしいと頼まれ、

1人からレッスンを始める。

次の月にはそのいとこ、またママ友の子供さん、という様に

生徒さんは口コミで増えていった。

 

ロシアン奏法との出会い

ピアノ指導には、いつも悩み、教材研究が趣味のような私はある音楽本でロシアン奏法という物を知る。

一音から学ぶロシアン・メソッド。

〜遠くまで届く 美しいまろやかな音色で一音を弾くために〜

それを日本で受け入れやすいようにオリジナル教材をつくられた 松田 紗依先生。

この先生に習いたい!!

でも、ここは四国の端っこ、、、

県外に出るのは泊りがけでないと無理、、、

二人の子供はまだ幼く、下の子は1歳だった。

ところが、高知県になんと松田先生がセミナーに来るという情報が。そして、講座の日。

忘れもしない、、、試弾している先生の姿。

音色を聞いて、息を呑んだ。

そして、30人ほどのピアノの先生が、たった1音だけみんなの前で、弾いて行く。

たったの1音。。。

たったの一音、されど一音。

一体、今までは、何だったの???

思っていたのと全く違う弾き方。

美しい音色が、渦のようになって響き渡る。。。

正直、途方にくれた。

40年近く弾いてきた弾き方を変える。。。?

そんなこと、できるのか?

1から、、いや0からのやり直し。

その時から、私はやさしい曲でも響きの豊かな音で、味わいのあるピアノが弾けるようになりたい、ということが目標となった。

そして現在も学んでいる。

 

自己肯定感とピアノ

娘には、自分でピアノを教えていた。

音楽を趣味にできるくらいになってもらいたいと思い一生懸命レッスンをしていた。

コンクールやステップ、年に何回も舞台経験をつんでいたある日、『どうしてママは、他の子に教えるように

優しく教えてくれないの』とパタリと弾かなくなった。

私は、大いに反省した。

コンクールに出るために、進度がいつも気になり、何かに追われるように頑張らせていた。

子供に謝り、そこからどうしたら子供にやる気をもたせることができるのか日々検索。

子供の能力開発や自己肯定感に行きつき、

「自己肯定感をあげる脳科学」や潜在意識などを深く学ぶようになる。

子供への言葉がけは、その子の人生を左右するといっても過言ではない。

あのことがあったから、私は方向転換することができた。

私のように、子育てに一生懸命になりすぎると「できない」ことばかりに目がいってしまう。

「出来ない」に目がいくと出来なくなる。

「出来る」に目を向けると、そう!「出来る」ようになる。

私は、我が子の子育てを通して気付いた大切なことを心にとめて、レッスンさせてもらっている。ピアノが上達するためには、まずピアノを好きになること。楽しくなること。その気にさせること!

ピアノを好きな気持ちを育てることを大切にしながら、楽しく基礎を学び、純粋に音楽を楽しめる人になってほしい。

笑顔できてもらい、笑顔で帰ってもらう、できるだけ母のような気持ちで1人1人に寄り添って今日も、楽しくレッスンしている。

そして、私に関わってくれたピアノの先生方の助言で、今の私が成り立っていることを忘れず、私も生徒さんにとってそんな先生になりたい。

 

自慢の生徒さん

①3歳から高校生まで教えた生徒さん

習いごとは一つだけという家庭方針のため、習いごとはピアノだけでした。

小1から毎年毎年、受験期も休むことなくコンクールに出続け、毎年入賞コンサートに出られた生徒さんでした。

中3の時、コンクールの入賞者コンサートのトリを務めるプログラムでしたが、、2ヶ月前に、右手指を骨折。

しばらく片手練習でした。

コンサート間際にやっと包帯がとれ、そこから目を見張る上達ぶりで、本番の演奏が一番良く、大変驚かされました。

どんな状況になっても最後までやり切る力で、乗り越えたその姿に感動をもらい、また子供の持つ可能性を感じさせてもらえた出来事でした。

文武両道、塾なしで、超難関大学に合格されました。

 

②音楽会の伴奏を目標に、毎日毎日朝練をしてわからないことがあれば、すぐに

LINEをしてきたり、演奏動画を送ってきたりとても積極的にとりくんでいた生徒さん。

レッスンでは、こちらが音色の話で例え話をすると

「うん、わかるわかる、〇〇な感じ?」と音楽で話が膨らみ、レッスンそのものをとても楽しんでいる様子でした。

熱心にとりくんだ甲斐があって合奏伴奏を無事に勝ち取った生徒さん。

自分の目標に狙いを定めて、ガッと集中できるそのパワーは、スポーツでも発揮されています。

スポーツとピアノを両立されている、ピアノ男子くん、かっこいい〜〜。

 

③遠くの中学に汽車通学する生徒さん。

いつも、レッスン時間はクラブが終わり汽車で帰宅後の夜9時15分から〜。

汽車に間に合わず、レッスン出来ないことも度々ありました。

レッスン終了は、10時ごろ、そこからの晩御飯でした。

お腹も空いているだろうし、ピアノを練習する時間はほとんどとれなかったと思います。

今、私自身親の立場になってみると、あの状況で子供の頑張りを見守るというのはきつかったのではないでしょうか。

それでも本人の希望の上、辞めることなく吹奏楽部とピアノ、遠くの学校への汽車通学をやりとげられたことは、誇らしいと思います。

家族の応援にも、感謝しています。